平成21年6月2日の日記。裁判員制度が始まった。

平成21年6月2日の日記
加筆修正:平成28年6月25日

早速始まった、裁判員制度。
友人の友人は、アルカイダ……じゃなくて裁判員。
「裁判員にはなりたくない」という意見が噴出しているが、ちょっと待ってほしい。
昨今、世論の全体的な動きとしては、刑の厳罰適用を求めるのが主流になっている。
死刑適用要求も高まっている。殺人人数による制限などナンセンス、一人でも殺せば死刑だ、と。
(もっとも、現状の刑法規定でも、1人の殺人で死刑適応は可能です。)

しかし一方で、「裁判員になったら、自分では死刑を下したくない、下せない。」そういう意見が出てくる。
「自分は死刑判断をしたくない」だけど「厳罰化の上極刑を望む」と言う世論が形成されていると言えましょうか。

これを解釈すると、厳罰化を求める割には、自分では、極刑を下せない。
人を殺す判断は他人任せ? この場合は、裁判官任せ。
自分は、当事者になりたくない?
第三者でいたい?
傍観してたい?
死刑を下すのは裁判官だけでいい、しかし文句は言わせろ……

情けない。
厳罰化を求めるのならば、自分が裁判員になったときに、一発目から死刑を主張すればいいではないか。それが出来ない。
この、激しい、当事者意識の欠如。
自分は当事者になりたくない、傍観者でいたい……

そういう気持ちが、日本の政治や行政をここまで落としたのに、今度は司法の領域をも、無関心・傍観願望で落とし入れるのか、と問いたい。

この傍観者願望、第三者願望。
私はあまり好きではない。
当事者であるにもかかわらず、傍観したい……
当事者としての権利があるのに、行使できない……

当事者意識を持ちましょうよ。
自分の国でしょ、自分の社会でしょ、自分の子どもに授ける世界に当事者として関わっていきましょうよ!

当事者意識を持つということと、主観的思考をするということはノットイコールであることに留意されたい。
客観的に物事を捉えるということは大事だ。
かつていましたね、「私はね、自分を客観的に見ることが出来るんです、あなたとは違うんです」って、言ってのけた総理大臣。
あれは、物事を主観的にとらえて批判しか出来ない記者相手に言い放った発言であり、なにも間違いではない。と思いながら、かの総理はその日に辞職してしまったわけで……

物事の分析をする場合は、主観的な判断よりも、客観視することの方が重要だ。
問題は判断した後だ。判断した後、どういった行動をしていくのか。
行動を起こすということは、何某という組織のナンタレという人間(たとえば、"○○株式会社"って言う組織の"総務課"の"係員"という人間)という立場で行動することとなる。
行動するときまで客観的な人間で行くのか、"○○株式会社"の名において行動するのか、すなわち、当事者としてかかわっていくのか。
私は、自分のかかわる範囲での問題解決の行動であれば、自分の立場を明確にしたうえで当事者として行動をするべきだと考える。

もっとも、立場を明確にするってことは、それだけ非難を受けやすくなるってことだから、はたして、非難を受ける覚悟を全ての人が背負うことが出来るのか、ということを考えるとなかなか難しい。

冒頭の裁判員の話を再び持ち出すと、裁判員として選出された人間が、厳罰化の考えを持って、当事者として死刑を支持したとする。
その人は死刑反対を訴える団体から集中砲火を浴びることも考えられる。
当事者として覚悟を持ってそれに耐えるか、はたまた、「みんな反対なんだから……」と客観的に考えて死刑を回避してしまうのか。
当事者として覚悟をもって非難に堪えつつ自分の意見を示すか、傍観して覚悟をもたずに非難を避けて順風満帆にすごすか。
私は前者でありたい。
さて、平成28年6月25日時点で、私のところには、まだ裁判員の招集通知は来ておりません。
なにやらうちの会社は、この裁判員に参加する際には、有給休暇以外の休みをくれる模様。
心置きなく休みを取れるので、ぜひとも、私も、裁判員裁判に参加したいです。
招集通知くださ~い。





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